YURRYちゃんのぷるぷるワールド

わぁ!すげー!すてき!のシンプルな感情を心の奥底から感じることが大好き。いつも人間らしく野生で犬のように動き回って生きたい永遠の子ども

鉄ボールですね

 

いかがおすごしだろうか

 

 

バリ島1か月生活から帰ってきて、大学に行くのも週2と減り、毎日の生活が機械化してきたストレスでやる気もモチベもなくなってしまったYURRYです

 

なんてこった

アルバイトに明け暮れる日々で、「会う人」も同じ

自分がこの世界のせまい枠組みの型にはめこまれている気がして生命力がない

 

 

モンゴル自伝もせっかく書いていたのにまったくいいアイデアが浮かばなくなってしまった。出版が遅れているのは時間がないとかじゃなく、ほんとうにいいデザインもアイデアも下りてこないのだ。こんな中途半端な本では出したくないから納得がいくまで構成させてくれ

 

 

 

かつての妄想想像わくわく衝動もさいきんはタイミングがないのかあっけらかんとしている

とくににえぎたるものはなく、モンゴルの冬の草原のように乾燥している

 

うるおいが必要だ。

 

 

 

 

だからといって焦ったり、これじゃだめだと自分を追い立てることはしない

なぜならば衝動 というのは タイミング だ ということを学んだからだ

 

 

 

なかなか自分の感性をうるおせていない今、東京という魔物に浸食されつつある気がしてならない

わたしはいったいどこのだれなんだろう と

 

 

 

この場では赤裸々に語ることが掟なので、ここさいきん出会った人への意見を言わせてもらう

 

 

 

「まるい鉄ですね」

 

 

そう 鉄ボールだ

 

なんだかその人は「常識」とか「一般的には~~」とか「~~ふうに世間では思われている」ていう基盤が分厚い。話のネタもオールマイティに対応し、するどいツッコミと笑いをとることができる。日本の世間一般でいう〇〇というのを把握しておりどんな相手がきても可も不可もなく心地よい空間を作り出せるのだと思う。

なぜ鉄ボールかというと、だれがなんて言おうとその分厚い一般常識基盤はゆるがず誰にでも受け入れてもらえる柔軟性、自分の軸はあるもののとがってはいない。どんなに攻撃しても心には届かず、カーンと表面で跳ね返す鉄の特性と、ありえるありえないをわきまえたとがってない感じ つまり まるいのだ

このことから鉄ボールと表現してやった

 

そんな彼を好む人間は多いだろう。大多数の日本人にはしっくりとくる会話のキャッチボールだ。

しかしわたしは彼のこの部分だけイラッとする

 

「〇〇は学生だからまだできないんだよ」

「〇〇ちゃんは~~~で~~~て子だから、~~風にあつかうといいんだ。んであの子は~で~~性格だから~~だよね」

「〇〇ちゃんって一番できるじゃん?」(YURRY:いや、そうでもなくね?wwと思う)

 

やけに自分は人をこれだけ見ていて性格を把握して対応していますよといわんばかりに図々しい分析をしてくるのだ。よくその分析を聞くのだが自信満々に言ってるわりには表面しかみれてねーだろ というかんじ

共感を求めてくるが「そうですね」といえばその分析賛成!と言っているきがして気持ち悪い

まだお会いして1か月ぐらいでよく人のこと言い切れますね

 

 

みんな平等に接するんだと言ってるわりには学生という肩書で下にみてんじゃねーか とYURRYは思うんですよ。

あと社会にでているかいないか で見方がぜんぜんちがう

 

 

 

それはもう社会的にいえば、この大人の言い分は当たり前でしょ という意見だろう

しかし 話を常識と一般的に~でふってくるあたりがどうも 嫌気がさすし YURRYもそのノリや風潮の中にいると考えたら吐き気がする

 

 

さっさと野生に還らんと自分が死ぬ!

はやく地方人の集まり東京からぬけだそう