なぜ人はがんばるのだろうか
思えば高校生の時から、この問いは佳境な時期に私に降りてきていた。
26歳、社会人となって東京という競争社会のトップレベルな社会にいて。
がんばれることがあるのって、とてもすごくて希少なことで。
がんばれなくなる時期があるのもわかるし、がんばる対象がなくなってしまう時期もわかるし、なぜがんばるのかがわからなくなってしまう時期もわかる。
すべて経験したから、真剣に向き合って生きている人がぶち当たるそのフェーズには共感できる。
なんでがんばってんだろう、と考え出すと、1年前までは
・優れていると思われたい
・あの人に勝ちたい
・理想の自分に近づくため
・掲げた目標に近づくため
等が理由になっていたと思うんだけど、どの理由も資本主義社会の競争レールにいるからこその理由だよねと思う。
つまりここで今の自分が思うのは、私はすでに完璧で何もしなくても超幸せなのになんでわざわざ汗水たらして負荷をかけてがんばる必要があるの?である。
お金もある、時間もある、足もある、手もある、家もある、食事もある、友達もいる、なんでがんばってんの?となる。
潜在的に競争社会で勝つために上記の理由をあぶりだして、活動をしているんだとすると、小さい人間だなと感じてしまう。
おそらく、想像している誰か、に勝っても負けても私の幸せ度は変わらない。目標が競争社会による欠乏から生み出されたものなら、それを達成してもしなくても幸せ度は変わらない。すでに幸せで最高な人生を歩んでいるから。
もしかすると、真剣にがんばっているのはめずらしいことで、本当はみんなそんなにがんばって生きていないんだろうか。私は常にがんばっているから、やはりふと糸がとぎれる時期というのは波のように襲ってきて、その度にやるき0になる。
そこで、競争社会の欠乏をモチベーションとした目標は生きる上で本質じゃないことを気づいた今の自分から考えた結果、
どう考えてもすでに幸せなのに、社会的に評価される能力やスキルを磨こうとがんばる(努力する)のは、感謝されるためじゃないかと。
前提として、社会的に評価される能力やスキル、に対してなぜがんばるのか、で考えているんだが、いわゆる能力が高い、希少なスキルがあれば、自分が社会に対して影響を与えれる広さと深さが大きくなるんじゃないかと考えた。その広さと深さが大きければ大きいほど、影響を与える人は増え、感謝される総量が増える。
だから、競争社会からくる欠乏がモチベーションになっている次元にいる人を除き、すでに充足にも関わらず、自己研鑽に励むのは、社会貢献がゴールになっているんじゃないかと仮説をたてたい。
自己研鑽に関わらず、新しいことへの挑戦をする人も。
このアイデアが出てきたのは、昔の人のがんばるモチベーションってなんだったんだろうという視点から考えた結果である。私なら、ちょっとでもお隣さんに感謝されたいから○○を磨こう、とか、ゆりーがいてくれてよかった!あなたがいなければできなかった!とか言われたいから、他の人ができないようなことを一生懸命がんばっちゃうだろうなと想像した。
それってコミュニティ、社会の中での貢献を目的にしていると思うし、当人も感謝されたいから自然とがんばっている。むしろがんばっているという認識はない。
結論、なぜがんばるのか?の答えは、社会貢献をして感謝されていから。である。
私も感謝されたいです。
感謝されるってすごく生きがいと自信になると思っていて、よくタイミーでスキマバイトに入るんだけど、どの店舗でも「今日あなたがいてくれて本当に助かった!ありがとう!また来てね!」と言われる。大したこともしてないのに、感謝されるのがうれしくて自分に自信がでる。
今のお仕事をしているのも、感謝されるからです。尊敬をしている人がちょっとのことでも感謝してくれるから、がんばれる。
だから、自分の挑戦はどの程度の総量の感謝を得たいか、でもあると思うし、日本にとどまらず、世界から感謝をされるのも素敵だと思うので、英語がぺらぺらにしゃべれる、はとんでもなくすごいことだと思います。
私の上司はトリリンガルで、本当にすごい人なんだけど、みんなは普段言わないけど彼のおかげでこのイベントが成り立ち、コミュニケーションが成り立っている、重要な役目であり、超感謝されるべき存在だと思っています。
私もゆりーありがと!って言われたい。
ゆりーのおかげで今がある!って言われたい。
そんなみんなの希望になり、誰かの重要人物になることを世界でやっていける、間違いなく羽ばたいて世界で、ASEANをとどろかせるYURRYです!