YURRYちゃんのぷるぷるワールド

わぁ!すげー!すてき!のシンプルな感情を心の奥底から感じることが大好き。いつも人間らしく野生で犬のように動き回って生きたい永遠の子ども

やっと動けた!

5月後半、やっと動けた。

 

インドネシアで3〜4月、初めてのツアー企画を行い、無事に2回にわたるシークレットツアーが終了した。

その話はまた書こうと思う。

 

f:id:yurry_narnia:20260610234650j:image

 

ゴールデンウィークに東京に帰ってきて、1週間でまた鬱。

 

本当に本当に恥ずかしいくらいに動けなかった。

朝3時間リモートワークをして、午後から何の予定もなし。家から出る必要がないからなんの気力も湧かずSNS地獄。

気力、エネルギー、活力、生命力、ぜんぶなかった。ほんとうに恥ずかしいくらいに廃人していた。

 

でもそんな状況はおかしい、こんなの嫌だってずっとずっと思ってて、どうにかしなきゃって1番自分が苦しんでるのもしってた。

 

 

そこで今回はやっと、マッサージの仕事を再開できたというお話しである。

 

正直このマッサージの仕事を再開するのにも躊躇して登録後2週間くらい動けなかった。

ブランクがあるからだめかな、、

わたしの技術じゃまだまだだよね、、

他にこんなにすごいセラピストがいるのに私には指名が入らないだろう、、

そんな怖さがどんどんつのり、登録したのに2週間はまた廃人だった。

 

 


でもある日初めてマッサージを利用する客が私に日程空いてるか問い合わせてきた。

そのためスケジュールを開放したら、いきなり別の人からの予約が入った。そのあともう一件予約も入り2件連続で対応することに。

 

 

 

あれだけ一歩を出すのが怖くて、久しぶりのマッサージができない、高度なレベルを求められる、私の技力じゃだめなんじゃないか、などと頭で妄想が膨らみぜんぜん動けなかったのに、その日の問い合わせの人は、初めて利用なのでハードルが高くなさそう、という印象でなんとかスケジュールを出すことができた

 

 

 

何かを始める時に、高いレベルのことを求められるから私はダメなんじゃないかっていつも思ってしまうが、案外こうやって、このハードルなら乗り越えられるかも、が目の前に来てくれたことでやっと動くことができた

 

 

 

1件目が終わったあと、私は自分によくやった!って褒めれた。

あれだけ動けなかったのにその日はマッサージの仕事をして外で動いて、1万円も稼いだ

 


動かなければ0、でも動いたから今日は1万円

1万円あればなしチャンプルが65回は食べれる。つまり、1ヶ月分の食費になる

 


まずわたしは、一歩踏み出せたことが嬉しかった

 


振り返ると、この一歩は自分の頭で考えて、んーどうしようか、やるか、やらんか、でも、あーだ、こーだ、私はまだ、もっと練習してから、、、などと考えた結果動いたわけじゃない

もう動かなきゃいけない現実の方が来た

いきなり問い合わせがきた。

技量なんてどうでもいいからやってくれって感じの人

 

 

 

動く瞬間というのは、机の上でスマホを見て、あーだこーだ、私はダメだ、いやダメじゃない、そんなことを考える時じゃないってことだ

 

 

 

考える暇もなくやらなきゃいけない

思考停止でまずやらなきゃいけない

そう思った

 


私が想像してる100分の1くらいのハードルが実際のところ。

私は100倍くらいで考えてしまうから動けなかった

 

 

 

でもその日、今の私ならこのお客さんならできるかも、の問い合わせが来ない限りは私は再開できなかったと思う

永遠に頭で考えていたと思う

 


永遠に現実を動かせないまま今年も終わってたと思う

 

 

 

じゃあさらに振り返って思うのは、自分にはできるかも、と思う環境やチャンスや思い込み、きっかけがめちゃくちゃ大事ってこと。

 

 


他のセラピストをみて、私なんかにオーダーは入らない、技量が違う、そんなことを見てたら永遠にできなかった

 

 

 

やる前からハードルがすごく高く見えていた

全てそうかもしれない

動けない原因はハードルが高く見えて、私なんかじゃダメだろうってできなくなる状態

 

 

 

できるかもしれないと思えないと、動けないことがわかった

これならできるかも、が積み重なって大きな成果やエネルギーや持続的な成長なんだと思う

 

 

 

だから、その時にできることを小さくやるってのは効果的かもしれない。

 


あなたには指名が入りませんってのも、やってみて言われたわけじゃない。

やる前にわたしが想像して無理かも、わたしのレベルじゃダメかも、〇〇かも、がどんどん大きくなって、動けない自分が出来上がった

 


できない理由ばかり頭にあった

ブランクがある、日本の店舗でセラピストしてない、本職じゃない、そんなことが大きく頭に占めていて、私はできなかったし動けなかった

 

 

 

でも何も考えず一歩だしたら簡単だった

さくさく歩けた

それは私ならできるかも、っていうChanceが巡ってきたから。

 

 

 

 


なにかとみんなすごいものを求めてくるんじゃないか

私の技量にケチをつけてくるんじゃないか

文句を言われるんじゃないか

そんな〇〇かもしれない、が先行してなにもできない人間になってた

 

 

 

なんでこんなに他人が求めるものが大きく見え始めたんだろうか?

 


私が思う理想像が高すぎるのもあるけど、これだけやれないと価値がないって思うハードルが高い

だから一歩が踏み出せないのだと思った。

 

 

 


今後のために復習

 


つまづいた時、自分の人生が止まってるとき、変わらないとき、動けない時、苦しい時

考える暇が減った時動ける

 

 

がんばれ!負けるな

 

 

 

 

-------

 

そして数週間たったいま、毎日たくさんの指名をいただいて、マッサージの仕事ができるようになった。

 

毎日たくさんの人に会って、話して、マッサージして、素敵なレビューやコメントをもらう。

 

今私は頭の中で思い詰めることはないし、頭が空っぽの時間が多くなった。

すごく楽になった。

動けること、外に出れること、人と会えること、私にとってとっても大事な要素が詰まっていた。

 

さいきんすっこぐ印象的だった出来事がある。

 

とあるお客さんからプライバシー侵害な行為をされて、ひどいコメントを残された。

それに凹んでいたんだけど、リピーターで指名してくれていたお客さんの寄り添いがとってもグッとくるものがあった。

 

その方は私の立場にたって考え、一緒にどうするかって考えてくれる人だった。

「こんなの気にしなくていいから!」

「私がめちゃくちゃいいレビューとコメント書くから大丈夫だよ」

「自信持って!お互いがんばろう」

と、話をしっかり聞いてくれたうえで、私を信じ、応援してくれる言葉をかけてくれた。

その背中をおしてくれる言葉が私にはとってもとっても嬉しくて、心の中はじんわりと泣いていた。

こうやって文章にすると陳腐なストーリーに見えるけど、あのタイミングで、あの方が、しっかりと話をきいて、何度も背中をおしてくれたことはわたしのかけがえない瞬間だったと思う。

 

その方にとっては、そういった寄り添いは当たり前のことだったのかもしれない。

 

でも私は身近な友達からも、

「ゆりーは大丈夫だよ」

「自信持って!一緒にがんばろう」

なんて言われない気がする。

むしろ私が背中をおしてあげる側だもん

 

だれかに大丈夫だよって言ってもらえること、信じてもらえること、応援してもらえること、それが私にはすっごく嬉しくて、温かくて、泣きそうだった。

 

インドネシアロンボク島のリンジャニの登山でもそうだったけど、支えるというのは、「信じて応援する」ことだと思ってる。

 

私はお客さんに支えられてるからお仕事ができるんだろうなと思う。

 

 

そしてこういった痛みも、自分が小さな一歩を踏み出さなければ喰らわなかった痛みだったと思う。始めたてで他の客さんからも、技量やオペレーションできついコメントをつけられることもあったが、それも自分がこの世に出さなければ得られない反応だった。ほしてきついコメント以上に、最高な感謝や出会いもある。

 

 

そんなわけで、5月から現在にかけて、空っぽになれた。

忙しく、外に出て、体を動かし、人と関わるのが1番の栄養。

 

大きな一歩ではなく、小さく勝つこと。

小さく始めること。自分にもできるかも、のレベルで始めること。

 

ダメにならないため、折れないためのポイントとして学べた1ヶ月だった

 

 

じゃ!

 

f:id:yurry_narnia:20260610235207j:image

 

なにもないことが最高の自由であり成功

なぜ海外やインドネシアが心地いいのか?について言っておく。

 

日本を出国し、他国でトランジットしている瞬間から。「やっと私は開放された!」という気分になる。

 

それは誰も私を知らず、ステータス0、肩書0、日本人0でやっといくらでも変人になれるからである。

 

なんとなく海外にいると、まったく人目を気にしなくてよくて、自分がめちゃくちゃ変な格好して変な髪型で変な歩き方や変な奇声をあげていても、気にされないというか、どう思われるかも考えなくていいから楽になれる。

 

 

そんな、すべて0の私で人々は関わってくれ、優しくしてくれ、見返りも求めない。

 

 

そういった何もない自分で在れ、何もない自分を肯定してくれ、変な格好をして変な奇声をあげて変なダンスを道中で踊りながら歩いても、いいバイブスしてんね~!くらいで気にされないような気がするから。だから日本を出て海外にいることが好き。

 

 

東京はもう10年いるけど、やっぱり海外から帰った後1週間くらいたつとしんどくなる。それは、何をしている人か?関わることで利益をもたらす人か?というジャッジがされてしまうから。損得で人間関係がつくられてしまう。私なんかは、相手にとって利益のある自分にならなきゃ、価値のある人間だと思われなきゃとプレッシャーを感じてしまい、どんどん焦燥感を感じてしまう。

 

 

一方インドネシアだと、何者にならなくても生きれる肯定感が謎にあり、ステータス0で生きれる肯定感がある。ちゃらんぽらんでも生きれるという安心、私より下はいるという謎の自信。(すみません)

 

 

 

さらけだしてしまえば、

私は何もない。

何ももっていない。

 

何もないことが嬉しく、正しく、生きていて、生き様であり、在り方である。

 

 

ステータスや肩書を持たず、真っ裸でいることにワクワクやニヤニヤや興奮を感じてしまう。

 

 

みんな、裸でたたかおうぜってこと。

 

 

 

東京にいるとやっぱり、大学出たんだからとか、これまでこんなすごい仕事や成果を出してきたんだからとか、過去に積み上げたものをカタチとして提出しなければいけないような気持ちになる。

それを証明できないと負け組な気持ちになる。

 

 

その戦いに挑むことはもちろん私にはできるんだけど、バーンアウトしてしまうことがわかってるんよ。一度バーンアウトすると戻るのが本当に大変なのもわかってるんよ。

 

 

だから何を証明する必要のない海外がいちばん自分が裸になれて、いちばん興奮する

 

 

唯一私が持っているものとすれば、

やさしさ

発見力

コミュ力

くらいよ。

 

だから、どんどん外にでて発見して持って帰るよ。

おつかいやお願いごともできるよ。

 

 

何もないことが誇りであり、最高の自由であり、最高の成功であると思う。

 

 

わたしは裸で戦うぜ

そしてどんどん外へ出て、発見をし、拾い、宝物を増やすぜ

 

28歳のつづり

28歳となりました。

 

この年の捨てる・やめることを昨日決めたので発表します。

 

  • 頭で考えた正解とか選択肢で進もうとすること
  • 部屋や地下、密室に1日いること
  • 今までのお金の稼ぎ方しかできないと思い込むこと
  • youtubeSNSを永遠に見ること。またSNSから答えを探そうとすること
  • 寝すぎること
  • 人としゃべらないこと

 

以上をやめることを決断しました。

 

なぜなら、この6年間、コロナが始まってからずっと、上記のパターンでいい気分になったことが一度もないからです。また、上記をやることでどんどん憂鬱となりエネルギーが循環せず、心身ボロボロになっているからです。

 

あれをしようこれをしようと”するべきこと”を考えることは簡単ですが、私はやめることや捨てることをしないと5年後もまったく同じ状態の自分でいると思います。

5年後今と同じ自分でいることを考えると、絶望というか最悪というかむしゃくしゃが止まらないです。

上記を6年間やめなかったから今の状態にあるわけで。まずは次に行く先の前に、今までやってきていた”自分をダメにする行為”をやめることから始めます。

 

 

ーーーーーーーー

 

昔一度だけ会ったことがあるインドネシアでビジネスをかましてる社長がいました。今日その人のSNS投稿がでてきて、たまたま見たんですが当時の嫌だった記憶がよみがえり最悪な気持ちになりました。

 

その社長は界隈では有名なので、思い出したり、誰かに話すことをする度にイライラとむしゃくしゃが出てきます。

 

なぜそこまで私が思っているのかというと、一度1.5時間くらいお話ししたときに、言葉の節々に上から目線な態度やニュアンスを感じれたからです。

彼の周りにいる人は彼を「すばらしい社長だ!」と絶賛していますが、私は一切すばらしい人だと思いませんでした。

 

  • 会話の中で私のことを知ろうとしないまま、まるで彼のビジネスアイデアを実現させるための都合のいい人間であってくれよ、という威圧感
  • 「あなたには理解できないかもしれないけど~~」といった、会話の中で私を下に見るような言い方
  • まだ何も私の想いや背景を知らないまま「中途半端な覚悟ではやらないでください」と言った念押しワードw

 

正直まったくいい気持ちじゃなかったんですよね。

私のいた世界とビジネスの最前線で戦ってきた彼のスピード感やマインドセットに圧倒された感もありましたが、終始対話はフラットではなかったです。

 

 

話し終わって1人でいるときに、まるで私が「中途半端な人」「能力のないけどチャレンジをしたい人」「イケてる社長の元で修行したい人」のように扱われた感があり、彼のおひざ元でなんでも言うことを聞くイヌのようになるような威圧感を感じたこともムカつきポイントだったのかもしれません。

 

 

そんなわけで、私は一切誰かの下にはつかないし、あの社長の人間的な未熟さに私がダメージを受けるのもちゃんちゃらおかしいので、私は正々堂々自分の生き方とあり方を誇って進みます。

 

 

ーーーーーーーー

 

28歳が100倍以上、自分のいい部分を循環して還元できますように。

心身最高のコンディションで過ごしていきます。

 

 

 

自分で作る物語への回帰

やはり私はどうなるかわからないものを追い続けるのではないだろうか。

 

どうなるか決まっているものに挑戦や取り組むって好奇心が削られないか?

 

AIが発達し、なんでも映像でスマホから見ることができるようになった。

また、情報に簡単にリーチできるようになったからすでに体験をした人にもアクセスできるようになった。

 

だれかの体験フィルターを一度くぐってしまうと、同じ場所にいっても自分なりの楽しめ方ができなくなってしまう。

 

SNSを見ては、私が唯一無二の体験をしている!と思っていたことは、誰かも体験していることだったりして。

 

知らなくてもよかったことが多くある、そんなここ数年の気持ちだ。

 

 

同じ場所で同じ体験をするにしても、私は自分の足で運でタイミングで見つけたんだ!という特別感がものすごく好きで。ネットで調べて来ました、っていう過程とはぜんぜん幸せ度がちがうんだよね。

 

 

自分だけが見つけたオリジナルの体験だ!と思うけど、ネットでがんばって調べたら出てくる情報だったりして。そういうのを見てしまうと、私が発信することも誰かの二番煎じかとも思ってしまう。

 

 

たまたま歩いてたら見つけたお店

たまたま泊まったホテルで出会った人

たまたま訪れた場所での出会い

 

その自分オリジナルの行動の結果なににつながったかという過程がとても幸せなのに。SNSを見てしまうと、一気に自分だけが知っていて自分だけが体験した!っていう特別感みたいなものが崩れ去る。

 

 

だから自分の幸せを保つためにSNSは見たくない。Youtubeやnoteも見たくない。あれってなんでみんな発信してるんでしょう?

 

 

 

 

2026年はじまり

2025年が終わり、2026年となった。

 

2025年はなにができるようになっただろうか?いろんなことを得て、失い、また新しい感情に出会った。

 

 

2025年の半分以上はインドネシアで過ごして、ノマド生活をしていた。

午前中10時まで仕事をしてお昼からは自由な生活。

まさに夢のような生活をしていた。

 

 

今年2026年は、水と一体になるがテーマである。

 

あれがほしい、こうなりたい、理想の自分、そういったものがまだありつつも、だいたい叶えてきた。また、○○の状態になる、というものを掲げているとだんだんそこに執着が芽生え、叶っていない現実ばかり繰り返されるようになるのでおかしくなってくる。

 

そこで、今年は水と一体化する、がテーマなのだ。

 

水のように無色透明で、流れるまま進む。意思は存在しない。

 

自分が世界の投影で、妄想やそうなる未来に一体化するイメージである。

 

どうなるかわからない未来のほうがわくわくするので、今年は水のように生きる。

でも、心には炎、目には覇気、たたずまいは精霊である。

 

以上

 

 

 

自慢すると起こることへの学習

なんか頭がモヤモヤしてきたのでぶちまけようと思う。

 

今日の記事は完全に言いたい放題の文章になると思う。批判的な言い方にもなってるので、読むと嫌な気持ちになるかもしれないがご了承を。誰かがどう思うとか気にせず書こうと思う。

 

まず結論、

 

私ってめちゃくちゃすごい人だと思うんだよね。

みんな知らないでしょ?

 

です。

 

あまりにも自分の価値を隠して相手に合わせすぎてきたのでそろそろ限界の領域に来てしまった。

 

もうそろそろ火花ふいちゃっていいっすか?

 

 

 

 

自慢することが仲間外れとなる学習

 

小学校のとき、友達の子が他の子の話題で「○○ちゃんっていつも自慢ばっかだよね~うざいよね~きゃはは」って言ってるのをよく聞いてた。

私は一匹オオカミタイプだけど誰からも嫌われたくないという気持ちが強かったので、ああいえば嫌われるんだ、ああいえば優しい子と思われるんだ、ああ振舞えば仲良くできるんだ、とみんなを観察しながら、ある種グループ社会で生き残るために悪口を言われている子がやってた言動は一切しないと学習をした。

 

小学校の中で嫌われてた子の言動は、

  • 自慢する子
  • 男の子とよくしゃべる子(男たらしの子)
  • 絵をパクる子

だった。

 

私は本当は本当はめちゃくちゃ自分のことは自慢したかった。だって自慢できる要素がありすぎるから。

  • 字がうまい
  • 足が速い
  • 頭がいい
  • 絵がうまい etc..

YURRYすごいね!ってもっともっと言ってもらいたかった。だけど、自慢すると嫌われるんだと学習をしたので、自分のすごいと思ってる部分は一切隠し、謙虚にいることを意識するようになった。

 

 

 

大人になった今の他人との比較

SNSも流行し、他人の活動がいつでもどこでも見れるようになった。

SNSを見てると、なんでこの人はこんな小さなことでみんなに注目されているんだろう?私もこれ何年も前からやっていたけど、なんで今更注目されているんだろう?私が簡単にできることをなんで発信するだけで注目されてるんだろう?

と、自慢を一切封じてきた私にとって、自己アピールをしていたり発信をしている人が注目されていることに嫉妬を覚えるようになった。

 

自慢したら嫌われるんじゃないの?という思い込みがだんだん違うのか?とも思ってきた。

 

 

そもそも自慢と自己アピールは違うみたいな論点はあるかもしれんが、正直私は自己アピールじゃなくて自慢したい人だと思う。

 

 

自己アピールは自己成長とか自分に矢印が向いてるけど、自慢は比較とか外側に矢印が向いているような感じがする。

 

私がまじで自慢解禁したらめちゃくちゃ人を見下すと思う。だって、私は人よりも優れていることがありすぎてみんな私についていけないもん。

↑これは本音だけど、こういうのをさらっと言ってしまうと「何こいつ?うざ」ってなるでしょ?!聞いてていい気持ちになる?人によってはならないでしょ?だから、自分をアピールすることも一切やめてた。

 

私の本性は優越感に浸りたいし、すごいね!って言ってほしいし、私のすごさを見せつけたい。

でもそういうとうざいよなあ、うざい女だよなあって他人が言ってるのをみて学習をしてるから、隠してる。そのほうが安全に生き残れるから。

 

 

本性はどうなのか?

自慢なんてせずもともとがいい子だったらよかったのにねえとか思いつつ、本当は私は生き残るために嫌われない言動をしているのであって、本当はちがう。思いやりが合って、話しやすくて、優しい子なんかじゃない。

 

私は明らかに同世代そしてそれ以上の人々の上位2割に入るくらい、優秀ですごい人間だと思う。

なぜなら、

  • スポーツ万能、勉強できる、絵がうまい、字がうまい
  • 陸上6年、水泳6年、バレー2年、テニス6年、ピアノ11年、習字4年、全部上位の結果をだしてる
  • 始めたことを続ける継続力がある
  • あきらめない忍耐力がある
  • 海外一人旅で19か国回っている
  • 知らない土地で現地の人の仲間となり現地の目線で観光客ではない体験を引き寄せれる
  • 入った会社はすべて最短OJT終了、No1セールス
  • 英語とインドネシア語がぺらぺらでしゃべれるトリリンガル
  • 世界中に友達を作れ、帰れる家を作れる
  • めちゃくちゃ行動力がある
  • めちゃくちゃ海外に行ってる

 

他の人できなくない?無理でしょ

まず、文武両道ですべてのジャンルで結果をだせますか?

入社した会社すべてで最短でNo1セールスになれますか?

トリリンガルになれますか?

海外に一人でいけますか?行く勇気やお金、時間がありますか?

 

普通の人には無理よ。根性と体力と度胸が桁違いすぎるもん。

私みたいな泥水すする覚悟のある根性とやりきる体力とエネルギーがないと無理よ。

そんな人いないでしょ?最近は特に、若い人はSNS取りつかれて自分へのリアルな体験や感性を使ってないでしょ。根性もない、気力もない、頭も悪い、そんな人だらけで、私なんでこんな人たちに合わせなきゃなの?って思う。

 

私のいる土俵が明らかに上すぎて庶民無理。

普通の人無理。

私の時間がほしかったら、まず根性つけて出直してこいって言いたい。

 

こういう根性論は令和の時代に蔑ろにされるけど、一番大事な部分よ?

根性ないとなにもできんよ?ほんと

すぐに折れるような骨なしの若者はまじで人生やり直したほうがいい。試練から逃げるなよ?って感じ

 

というか逃げる人ほんとにダサいよね。何に対しても。

自分にも他人にもトラブルにもマイナスなことにも。正面からぶつかる勇気と根性、度胸、死なないんだから一回ぶつかれよって思う。

 

 

 

 

 

 

 

成功という罠

成功体験が自分を苦しめ、

確認行動をくりかえす私たち

 

今日はそんなことについて考えを残しておこうと思う。

 

こうすればこうなる、法則を学んでしまうとその方法以外の体験をどうしてもしなくなってしまう。

成功するために、達成するために、考えぬき修正を繰り返した戦略で勝った(成功した)ときは、なんとも最高のきもちよさだが、その成功体験が自分の達成基準となってしまうことが、私を苦しめることがよくある。

 

 

わたしは勝てそうな勝負しか挑まない。

なぜなら”勝てそうかも”と思って試行錯誤する時間がいちばんアドレナリンがでるしワクワクするから。

結果はとうぜん勝つ。成功する。

なぜなら勝てることの確認行動だったから。

 

勝てるイメージがつかないことはしない。

つまり、勝てない確認行動をしたくないということだろう。

 

 

わたしはいつも勝つ、つまりチャレンジすればいい結果を残せる人間なんだ、そう学習している。部活、勉強、試験、仕事、営業成績、、、etc 常に最速で最強の結果をだしてきた。だからそこには2つ事実が存在していて、成功するという確認行動を同じやり方でもっともっとしたくなる依存的な一面と、この手法で成功したから次回も同じやり方で同じ結果をだせて当然だ、というハードルの高い基準設定である。

 

 

 

 

確認行動への依存

わたしはバリ島が大好きだ。バリ島にくる日本人観光客やVlog動画を見ていると、なぜみんな同じルートで、同じ場所へ行き、同じような写真をとり、同じようなホテルへ泊まって、同じような体験をして、ガイドブックに載っているモデルコースの時間を過ごしているんだろうと、理解できない気持ちになる。

 

今までこれが、まったく理解できなかったんだが、昨日出会った人と話して気づいた。

彼ら彼女らは、予想ができ、トラブルも複雑さもない安心安全な旅行という成功体験をどこかで持っているから、その確認行動をしたいんだと。

逆にわたしは、海外で1人でいろんな現地の友達をつくり、民族の仲間となり、現地の人々と同化して旅をする、という成功体験をもっているから、それを繰り返しすることで確認行動をしたいんだと。

 

私と私以外の人間は、成功体験の種類が違うだけ。

私ができる当たり前の確認行動と、私以外の人がする当たり前の確認行動が違うだけ。

 

それは生まれたときから成長する中でしみついた思考の習慣が確認行動にも反映されるのかもしれない。

 

新しいことへのチャレンジがだんだんと億劫になってくるのは、年を重ねるごとに思考の習慣が固まり、確認行動をさらに強める体験がどんどん増えるからじゃないだろうか。

思考は現実を作るから、こうしたらこうなる、その法則を繰り返し続け、自分の成功パターンを信じるような現実となり、そのやり方でしか安心ができなくなってしまう。

 

 

確認行動の末路

同じやり方での成功体験を繰り返すと、こうすればこうなる、を強く学習できる。でもこれには罠がある。人生のステージがめまぐるしく変化しているのに、同じやり方で成功体験をしようとしてしまうことである。

でも環境、体力、考え方、いろいろ変わっているのに、同じやり方で成功はしなくなるのは当然のこと。なのに、壊れたスイッチを永遠に押して電気がつくのを待つかのように、前はこのやり方でできたから、成功して当然だという呪縛から離れられなくなってしまっている。

 

私はよくそこでつまづいている。

「前の自分はできたのに、なんで今の自分はできないのか。今の自分は情けない。ダメ人間だ」

「前はこうすればこうなっていたのに、今同じ結果にならない自分は落ちこぼれた」

そうやって、昔の成功体験に縛られ、新しいやり方や自分を満足させる別の方法を考えず、同じことを何度も何度もくりかえそうと疲弊する。たまたまできたのかもしれないミラクルショット成功が自分の基準値となり、それに達していない自分は許せなくなる。

 

 

この考えを持ち続けると、私は理想の人生を手にいれても永遠にその状態を更新し続けなければいけない人生となり、成功することが怖くなるんじゃないか、そう思った。

だって、成功すれば次はもっとがんばらなきゃいけないんだから。

 

 

信念の確認行動

この話の裏を考えてみる。

確認行動とはつまり、自分の信じていることが正しいよね、ということを納得するために起こす行動だと思う。

 

例えばわたしなら、

  • バリ島にいけば心身が回復し、最高の状態となれてインスピレーションがおりてくる
  • 海外への旅は、現地の人たちの生活に入り込んでこそ旅である
  • わたしはテレアポや営業が得意である
  • わたしはインドネシアが好きである
  • 太陽や自然が自分を整える必要な要素である

そういった、信じていること、がある。

 

自分は自分を正しいと思い込みたいから、現実でもその信じていることが正しいと思うような結果を自然と自分が導いているというか、正しいと思う証拠が目に付いたり感じたりするようになる。

 

だから私は、バリ島に行くし、テレアポや営業でとんでもない結果をだすし、インドネシアにいるし、自然と共鳴をしている。結果的にその信念が正しいと思わざるをえない状況となる。

 

 

人は信じていることを反復したいし、もっともっと正しいと思っていきたい。

だから現実も信念が正しいと思うような状況に結果的になる。

 

 

シンプルに、信じていることが現実になるだけ、そういうことがいえる。

現実になっていない理想とか夢は、信じ切れていないだけ。そういうことなのかなと思っている。

 

 

この事実のなかにある問題

 

信じていることが現実になるだけ、そういうシンプルなことなんだけど、過去の成功体験によって作られた、”できる”と思っている信念は執着に変化するタイミングがあるのだろうか。

 

過去の成功体験で作られた信念にとらわれているから、それが足かせとなって次のステージに進めない状態。

 

信念と執着の違いはなにか。

 

考えてみたけど明確にはわからなかった。

ただ、信念は軽やかなエネルギーであり、結果的に○○になった!くらいの感覚。執着は重いエネルギーで、事実をねじまげて無理やり思い込もうとしている状態な感じがした。

 

 

では、過去の成功体験はどうとらえるべきなのか。

 

 

例えば、

  • 大学のときTOEICを1カ月で300点あげて630点とれた

○ ただしく勉強すれば爆発的な結果をだせる人間だ

 

  • コールセンターの営業のとき、入社1か月目で上位3位以内の成績だった

○ 失敗の修正を繰り返し、平常心で続けていけばおのずと結果はだせる人間だ

 

  • 自伝出版して100冊以上売れた

○ 自分を売り込んでいけば、熱意を買ってくれる人はいる

 

わたしは○のように過去の成功体験をみているけど、それが守らなきゃいけない軸、壊したくない定義となってしまうと執着になるだろう。

 

 

結論

成功という罠、つまり成功体験への執着が自分の可能性を狭めることになっている。

成功が自分の信念となり、可能性を広げるとらえ方をするためには? ここはまだ考えていきたい。