YURRYちゃんのぷるぷるワールド

わぁ!すげー!すてき!のシンプルな感情を心の奥底から感じることが大好き。いつも人間らしく野生で犬のように動き回って生きたい永遠の子ども

残されたのは人間と生命とアートだった

習慣である日記の一部をきりとる

10/28

 

無であり、無力であり、力もなくただ存在しているYURRYから発するのは、知っている世界からNEWは生まれず、comfortableは心と脳を固めてしまうということだ。2週間外にいる日もあれば、友達の家でごろごろし、YouTubeを永遠に見るという日もあった。1年前、いや2年前から自明のことであったが、「部屋」という存在はなぜか私をこわす。立ち上がるとフラっとし、浸っていたSNSに殺意を感じる。何も得るものはないとわかっていながらTwitterYouTubeを見るのは「外」「NEW」を十分に得ていないからだろう。そのすきまをうめるように暇つぶしを、生産性のないSNSという恐怖のアプリケーションで使ってしまうのは、何とも自分の首を自分でしめているようだ。

 

SNSで戦ってるやつらはそれが武器なのだから、やり方もツイートの仕方もフォロワーの集め方も、見せ方もすべてわかっているのだ。しかし私はどうだ。足がからまったように、自分のリズムを自分でこわしにいっているのだ。

もうそんな中途半端な使い方はやめたらどうだい?

 

何事も中途半端で得られるのは、中途半端な結果しかない。だれもの生活と思想が垣間見れる時代になったからこそ、何が良くて何が悪くてどう進むのが良いのか影響を大きくうけるようになってしまった。しかしネットでツイートやYouTubeで時間浪費してる暇のあるやつらに外でたくさんの生命とアートにふれてる人間の経験から生まれる思想と意見が理解できるだろうか?そしてそいつらも同じような思考パターンになると思うか?いや、ぜったいならないだろう。何倍も濃い時間を使って過ごしてる人間の価値ある思想がかんたんに流されるようじゃ、本気じゃないっつーか、それこそ中途半端なんだよね。

 

極めてる人間はさ、理解不能なんだよ。理解できることをやってるうちは、まだまだ不純物混じりの人間界ってことよ。なんていったら日本の20代の若者80%ぐらい、人間でもないからね。でも彼らは見えてない。自分たちがインターネットや社会にあやつられてもう人間ではなくなってることに。そのままおもちゃの箱の中で一生を終え、死んでいくんだ。そう死に。

そんなコンピュータ、ロボットとかがうじゃうじゃいる日本で遊ぶのと人間と遊ぶの、どちらが楽しいか? 自明である。

残されたのは人間と生命とアートなんですよ。これは1年前から言ってるね。で、これで遊ぶには「部屋」にいてはだめなんですよ。これに会えるのは必ず「外」で「NEW」な所なんよね。場所に限らずNEWは「人」でもいいの。Aと一緒にいるときのバリ島とBと一緒にいる時のバリ島ってらぜんっぜん違うくない?方向が違うとかじゃなくてがちがうんよ。このアートなんよ。

 

そして遊びと生きることにはリズムがある。このリズムをふみはずすと戻るの難しいんだよね。だけど常に全力疾走はできないし、落ち込む時もあるからリズムから外れたときの戻り方を覚えなきゃこの先うまくのりこえられないと考えている。

 

上や先輩やseniorの甘い言葉はいらない。彼らのgoodがわたしのgoodではない。見方をくれるのは大変いいことだけど妥協はしない。

甘い蜜なんていらないのですよ